今日のモーツァルト
08/23:出来事:1784年:姉のナンネルがザンクト・ギルゲンの管理官ペルヒトルト・ツウ・ゾンネンベルクと結婚した。


RSSへ追加 はてなRSSへ追加 Livedoorへ追加 Google Readerへ追加 My Yahooへ追加

ザルツブルク夏の音楽祭2006

「ザルツブルク夏の音楽祭2006」では、生誕250祝年を記念して、モーツァルトのオペラ22曲の全曲演奏が行われました。あくまでも支配人の個人的な感想ですが、何かの参考になれば幸いと視聴報告をさせていただきました。日づけは、観劇した日、順序は感激した順です。   
支配人敬白

イドメネオ:8/22

演出を料理にたとえるなら、 客に対し今まで見たことも食べたこともないものを出して驚かせてやろうというタイプと、 素材を活かしてできるだけおいしいと感じてもらえるものを出そうというタイプがあるように思う。この演出は、後者に属すもので、 単調になりがちなセリアスタイルを飽きさせず、わかりやすく見せてくれた。奥に深い舞台特性を活かして、 宮殿を模したと思われるオーケストラピットを囲む四角い回廊とその奥の町あるいは海岸をあらわすスペースが舞台となった。 序曲開始から終始ネプチューン役の俳優が登場し、不安の影を落とす。ノリントンの指揮はさすがで、 激しい場面の多いこの曲の陰影がくっきりと描き出された。すべてにおいて最上の演奏で、スタンディング・オベーションとなったが、 中でも、エレットラ役のアニャ・ハルテロスを特筆しておきたい。

キャストなど詳細は

コシ・ファン・トッテ(8/23)

昨日の「イドメネオ」 と同じ意匠、演出家である。3年前にも同じ趣向で見たが、再度見ると、 細かなところに配慮されていることが分かった。舞台左に羽毛、右手に石。舞台の上にも大きな卵形の岩が置かれている。 どうも浮気と貞操を象徴しているようだ。舞台の前にせり出しが合って、セリアよろしく、 主役がここに上がって歌うという仕掛けもある。ここに、ドン・アルフォンソが立ち、タバコに火をつけると序曲が開始された。 バトミントンとフェンシングでゲームを暗示し、賭けの場面へとつながっていったが、どうもこの賭けは、 アルフォンソによって全て仕組まれたものらしい。最後に、3人の女性全員がアルフォンソにお金を突き返したからである。 この演出家は、このような機知によって、女性蔑視とされるこのオペラへの批判をかわしたかったようだ。それにしても、「コシ・ ファン・トッテ」の音楽は、何と魅力的なことだろう。この日の歌手たちには、それとなく疲れが見られたが、 声楽をくすぐるかのような器楽の相の手、そらぞらしい時にはそらぞらしく、浮気こころには浮き浮きと、 貞操には断固としたアリア、壮大な六重唱、そして時に訳の分からない歌と、全編にモーツァルトらしい遊び心があふれていた。

キャストなど詳細は

魔笛(8/26)

ムーティの希望で演出を変えたというだけあって、 キャストは共通ながら昨年とは見違えるほど楽しい舞台に仕上がった。最終日ということもあり、幾分の疲れはあったのだろうが、 名残を惜しむかのような熱演でもあった。ウィーンフィルはこの指揮者との共演に嬉々として、 今回の音楽祭の演奏の多くがピリオド奏法を意識していたのに対し、序曲から流れるような美音を奏で、時にさりげなく、 恐らくキュッヘル氏の技なのだろう、小さな装飾を紛れ込ませていた。舞台装飾はおとぎの国のオンパレードで、大きな岩山、目が光る巨大な蛇、 パパゲーノが乗った自動車、空中飛行、童子の飛行機、獅子舞と次から次に子供が目を輝かしそうな出し物が繰り出され、これに火や水、 花火などスペクタクルも加わって息つく暇なく終わってしまった。このように見せられると、フリーメイソンの思想に基づくのだろうか、昼と夜、 正義と悪、男と女、白と黒などの二元論の中で正義が制するおどろおどろしい「魔笛」よりも、「魔法の笛」によって、 それらが融合していく結末の方が、モーツァルトの望んだ世界ではなかったかと思えてくる。

キャストなど詳細は

ポントの王ミトリダーテ(8/28)

昨年は、 14歳のモーツァルトと屋外劇場の寒さにすっかり圧倒されてしまったが、 今年は昨年以上の寒さだったとはいえ、この復讐オペラ?を理解するという多少のリベンジは果たせたかもしれない。演出・ 配役は去年と同じで、3楽章構成の序曲の2楽章から劇が始まった。ミトリダーテの死の報が暗示され、 そのまま第1曲のアリアにつながる。大鏡を使って背面まで舞台にしたり、 シンボリックな説明アクションや場面を取り入れてセリアに動きを加えたりとアイデア満載の一方では、 いくつかのレチタティーヴォとアリアが省かれた。また、去年に比べると、 配役が無理な姿勢をいつまでも強いられる場面は極力減っていた。 歌手もミンコフスキーが指揮するフランスから来た古楽器オーケストラも好演で、いずれのアリアもすばらしかったが、 特にシーファレとホルンが絡むアリア、シーファレとアスパージアの二重唱、アスパージアのカヴァティーナは精彩を放っていた。 休憩後は、2幕のフィナーレから続けられたが、マルツィオの報告を「やらせ」 と設定したため、シーファレの戦闘参加はなくなり、フェルナーチェの懺悔を聴いたミトリダーテが彼を許し舞台から消えて、 次に現れたときには孤独に死を迎えるという具合で、ローマ軍侵攻の切迫感やミトリダーテの死因が伝わらず、 すっきりしない結末で終わってしまった。

キャストなど詳細は

皇帝ティートの慈悲(8/21)

これを音楽が湧きあがってくる演奏というのだろうか? 木管が揺さぶる序曲、ティートに怪しく絡むファゴット、セストと五重奏を奏でるかのようなクラリネット、重唱の数々。 それまでのセリアに納まらないモーツァルトがあふれる世界を、アーノンクールが指揮するウィーンフィルが創り出していた。それにしても、 演出の意図はまたしても理解力を超える。幅40mにも達する広い舞台は、マンションなのか宮殿なのか? 3階建ての建物の断面。ティートがかけた電話の呼び出し音を合図に、 演奏がはじまった。まわりの部屋で劇が進行する中、第4場まで彼は、真っ暗な真正面の部屋に座っている。 いきなり扉が開いて見学客の群れ。そう、彼は歴史博物館に置かれた彫像なのだ。それが突然立ち上がり、 現実の人間として動き出す。その他の配役はすべて現代の服装。もともとセリアの「慈悲」が非現実的であるだけに、 それを現代的にすればするほど、実在感が失われていく。それを現実に引き戻したのは、放火のシーンで、本当の爆発が起こり、 顔には熱風が飛んできた。演出のコンセプトは「慈悲ゆえに民は不幸になる」というものらしいが、最後にマンション風の各部屋に配置された3人家族の所作は、原作の結論を反面教師とするこの教訓を日常にアレンジし、「親は子供を甘やかさず、厳しく育てるべきだ」というメッセージとして伝えたのかもしれない。

キャストなど詳細は

救われたベトゥーリア(8/18)

この曲はどこで演奏されたのだろうか?我々にとっては、カラヴァッジオの生々しい絵画によって生起される旧約聖書の題材を、 若干15歳のモーツァルトは、 会話構成のレチタティーヴォで劇を進行させながら、アリアでは登場者の信仰心、意思、感情をさらけ出し、 劇的なリアリティをもたせるという手法で料理した。異国のことばではあっても、当時の聴衆にとってよく知られた筋立てが、 情感のこもったアリアによって、現実のことのようにひしひしと伝わっていったことだろう。曲の各所に、モーツァルトが好み、 やがてモテットKV165に結実していく 「ボーカル協奏曲」の要素がちりばめられていた。モーツァルトの音楽は、宗教曲といえども人間的である。 不安とそれに立ち向かう信念、世評に流される軽薄さと貞淑で落ち着いた判断、 信心者と異邦人などあらゆる場面にめぐらされた対照を、ポッペン指揮のミュンヘン室内管弦楽団は、 過度の装飾や抑揚をつけることなく、シンプルに、そしてストレートに引出していった。演奏会形式ではなく、また、 歌手に負担の大きいこの音楽に対して、会場がもう少し小さく、教会のように反響の大きい場であったなら、肉声はこだまし、より一層、 迫ってきたことだろう。

キャストなど詳細は

バスティアンとバスティアンヌ/劇場支配人(8/6)

マリオネット劇場で上演されたこの演目は、全体が「劇場支配人」で、そのオーディションシーンに「バスティアンとバスティアンヌ」 が挿入され、統一したストーリーとして子供も楽しめる構成になっていた。劇場支配人の充実した序曲が終わると、フランクとブッフが登場し、 これにフォーゲルザンク氏が加わり、この劇場で使われたモーツァルトオペラの主役人形たちが次々に登場して売り込みを図る。 絞られた10体の無垢の人形がまるで生きた人間のような動きでオーディションを行い、 選ばれたヘルツ夫人とジルバークランク嬢の人形に服を着せて「バスティアン」が始まった。その最後の仲直りシーンで、 突然バスティアンヌ役の交代がフランクによって告げられた。「バスティアン」が終わると、そのまま「劇場支配人」の後半、 「先の途中交代が火種となって」2人の女優がもめるという三重唱に引き継がれた。人形たちの見事な動き (後であまりに多くの使い手たちが出てきて驚いたが)、演劇と演奏会形式を取り混ぜて歌う歌手たちの臨場感とともに、 ザルツブルク・ヤング・フィルハーモニーを率いるエリザベス・フックスの詳細かつ的確な指揮が光っていた。

キャストなど詳細は

ルーチョ・シッラ(7/30)

ヴェネチア・フェニーチェ劇場管弦楽団が、 見事な装飾音をつけて演奏した。歌手もそれぞれすばらしい出来で、特にジューニア役のアニック・ マッシスは聴いていても難しいと思われるアリアを、難なくこなしていた。若干の難を言えば、元来カストラート用のチェチーリオは、 声の厚みという点で女性ソプラノには気の毒という印象を持った。(KV165はこのカストラートのためにモーツァルトが作曲した曲だが、 生誕日に祝祭劇場でバルトリが歌ったド迫力が忘れられない。)演出は、単調になりがちなセリアを補い、筋立ての理解を促す工夫がされていた。 長い舞台を効果的に使い、左側には、シッラの圧政、弾圧に苦しむローマ市民を、右側にははなやかな宮廷の生活を配しながら、 中央でオペラを演じるというスタイル。 フィナーレは筋立ても変わり、唐突の恩赦ではなく、 シッラがチンナに背後から短剣を突きつけられてやむなく大衆の面前でチェチーリオの放免を発表するというもの。その後、シッラは刺され、 見捨てられた彼を、妹のチェーリア一人が看取りながら閉幕という独自のものだが、 それなりに説得力があった。

キャストなど詳細は

牧人の王(7/29)

アレクサンダー大王は、 解放した国の王に羊飼いアミンタをつけ、僭主の娘タミーリ妃にしようと考える。しかし、2人とも他に恋人がおり、恋と栄達との間で悩むという筋なのだが、 序曲が終わると、2人の男と3人の女が大きなトランプのようなカードを選び、演じる役割を決めている。 字幕はない。レチタティーヴォは省かれ、代わりにドイツ語のせりふが話される。アリアはイタリア語であり、 せりふや説明がドイツ語であれば、聴衆の大半は、歌の内容ではなく、説明によって状況や展開を理解すると考えたのだろう。 ドイツ語が解せない私のような聴衆にはつらいところだが、にもかかわらず、王冠やハートのカード、羊などの背景スライド、 戦車や風車の模型などから、そのストーリー展開は、十分理解できるものに仕上がっていた。歌手のできも良く、トーマス・ ヘンゲルブロック指揮のバルタザール・ ノイマン合奏団が古楽器による好演を楽しませてくれた。

キャストなど詳細は

アポロとヒアキントス、第一戒律の責務(8/27)

モーツァルトが書いた初のオペラは、初演されたザルツグルク大学のホールで、これもまた初の宗教劇とともに、 モーツァルテウム大学の学生の手により演奏された。歌手も若手を起用し、どちらも当時の様式を再現したようなスタイルでの上演であった。 前者はバロック様式。アポロンの戦いを描いた幕が上がると紙芝居を大きくしたような舞台に人形が、と思ったら、 これが人形のような意匠をまとった歌手で、主に手と表情を使ったゆっくりしたアクションで会話と喜怒哀楽を伝えていく。 音楽もバロック色の濃いものであったが、技巧的なアリアや二重唱、三重唱を聴くと、わずか11歳の少年が年上の大学生に課した作品という由来を疑いたくなる。後者も、 多分、当時の教会ではこのように行われたのだろう、田舎芝居のスタイルで上演された。 背景画を描いたカーテンのような幕がシーンに合わせて取り替えられ、シンボルをまとった善の霊たちは天界を示す2階から歌い、 唯一現代衣装の信徒を、修道士の霊とまるで小怪獣のような世俗の霊が説得しあうという構成で、 6人の小怪獣たちは客席に紛れて暴れた?聖よりも世俗の霊のアリアに、よりモーツァルトらしさが感じられた。

キャストなど詳細は

ラ・フィンタ・センプリーチェ(8/1)

このオペラを「遍歴」 というテーマにまとめ、3部作の第1部として構成したのは、このオペラの上演妨害をきっかけにモーツァルトの遍歴生活が始まったことを示唆してのことだろうか?歌手以外にナレーターが1人加わり、 本来レチタティーヴォで演奏する部分を舞台演劇風に時にはナレーション、時には歌手と絡みながら表現。フィンタとは見せかけ、 センプリーチェは純情・素朴の意味だから日本名なら「見せかけの生娘」あるいはずばり、「ブリッ娘」とでもなるのだろうが、 筋はそのタイトル通り、女嫌いになった兄カサンドロと兄に絶対服従の弟ポリドーロがおり、フラカッソは、 その妹との結婚をこの兄たちに承諾させるため、自分の妹ロジーナに頼む、彼女は生娘に扮し、この2人の本当にうぶな兄たちを手玉にとってメロメロにするというもの。この 「フィンタ」を表現するためか、ロジーナがアリアを歌う部分では、ダンサーが加わって影のロジーナ (どちらがフィンタなのだろうか?)をパントマイムで演じていた。 フラカッソとカサンドロの決闘の場面では漫画のようなビデオが効果的に使われていた。最後は、 ひとりだけのけ者になるはずのポリドーロがナレーターと相愛となり、3組のカップルが登場して幕を閉じた。

キャストなど詳細は

たそがれの気分(8/2)

「遍歴」 の第2部は「ザルツブルクに息が詰まり新天地を求める」 と訣別を訴えたモーツァルトの悲痛なフレーズから始まった。祝典の年、しかも不満の矛先の住居、レジデンス内の特設舞台でと、 なかなかセンセーショナルなアジテーションである。モーツァルトの叫びをモチーフに、そろそろ初老に達する歌手がメイン、 サブに女優とダンサーという主人公たちが、悩みながらも次の人生へ旅立つというドラマとなった。オペラ22の中で、唯一オペラを含まない構成であり、 ドラマとしても中途半端なものであったが、リートの名曲「夕べの想い」をテーマ曲にしながら、 日頃は耳にすることのない器楽、声楽、 室内楽、交響曲の楽章、 断片章が合計18曲、次々に披露され、他にはない贅沢を味わう気分だった。カメラータ・ ザルツブルクの演奏は美しく秀逸であり、グラスハーモニカの曲目3曲には心を奪われた。モーツァルトが歌手たちからの依頼によって、 他の作曲家のオペラを書き直し、挿入したレチタティーヴォやアリアも、モーツァルトがあふれるものだった。

キャストなど詳細は

カイロの鵞鳥/だまされた花婿/レクイエム(8/7)

「遍歴」シリーズの最終第3部は、「偉大なる王」と題され、KV422430を中核に、 モーツァルトの未完作品を集めてレクイエムに至るという構成で行われた。前半は、舞台の右隅に、第2部で主役となった歌手アン・ マレーの練習部屋がガラス張りで作られ、その前で2つの未完のオペラが演じられた。歌手たちが登場し、第1部「ラ・フィンタ・ センプリーチェ」での役名を紹介、3部作の連続性を訴えた。いずれもダンサーとの混成で演じられたが、 他者の加筆オーケストレーションが多い鵞鳥では、モーツァルトオリジナルとの差が浮き彫りになった。後半は、 死に至るまで片時も留まることを知らなかったモーツァルトの創作意欲、遊び心を27曲の未完曲とレクイエムで表現。この部のテーマ「Rex tremendae:偉大なる王」が高らかに歌われる中、 3510ヶ月の生涯のうち、3,720(102ヶ月)にも渡ったモーツァルトの「遍歴」に幕が下ろされた。

キャストなど詳細は

アルバのアスカーニョ(8/3)

合唱の多いこの祝典劇のなかで精彩を放ったのはディアナ・ダムラウのファウノで、 ブランコに載って歌う2つのアリアが観客の喝采(かっさい)をあびた。 このオペラはミラノ大公フェルディナンドとエステ家の一人娘マリアとの婚礼を祝うために作曲されたものであるが、ここでも、 レチタティーヴォは声によるナレーション説明に置き換えられ、 最後にはアスカーニョがシルヴィアにふられて幕を閉じるというどんでん返しが仕組まれていた。 ヴィーナスが定めた相手シルヴィアと息子アスカーニョを結婚させるというオペラの筋書き通り、この婚礼は、実際にマリア・ テレジアによってお膳立てされたものであり、モーツァルトを雇いたいと思っていたフェルディナンドは、 母親から送られた1通の手紙でそれをあきらめたという経緯もあったわけだから、 マザコンのアスカーニョが相手にふられて終わるというのはいかにも現代的な筋立てとして面白かった。

キャストなど詳細は

シピオーネの夢(8/20)

これは、 きっとパロディを狙ったものなのだろう?後に憎悪する大司教の就任を祝してのオペラだからなのか?夢の中の話なのだから、 自在に変えてもかまわないと考えてのことなのか?舞台は現代の名士の家庭。主人公のシピオーネは、2人の女性に結婚を迫られ、と思っていたら、 実はコスタンツァとの間には既に2児の子供がおり、浮気相手のフォルトゥーナと分かれる展開のかと思ったら、 最後は賞賛をするリチェンツァ役と挙式するという結末。所詮、「大司教なんてこんなもの」 とおとしめてモーツァルトファンへの受けを取りに行ったのか?しかし、音楽はレチタティーヴォ、アリアともに原文そのまま。 車いすに乗ったプブリオが地球儀の置かれた部屋で天体の運行について歌い、エミーリオは、ゴルフボールを見ながら、 その中にローマが見えると歌う。この曲最大の聴き所のひとつ、コスタンツァが最高音まで上り詰めるコロラトゥーラは、 シピオーネの股間にまたがり、セックスの絶頂表現に仕立てられた。この日も、すばらしい音楽が奏でられ、CDで聴けばそのような舞台であったとは想像もつかないだろう。

キャストなど詳細は

フィガロの結婚(7/31)

「フィガロの結婚」は、2006年祝典の「アーティスト・イン・ レジデンス」を担うアーノンクールの指揮で、 この夏のメインイベントとも言える。7月26日にテレビ中継され、 この時の席には3,000ユーロのプレミアがついたと言われている。演奏は、遅くて重い序曲から始まり、一貫してゆっくり目、 軽快な場面は極力抑えられ、あわてふためく場面でもスピードが上がることはなく、間もたっぷりと取られていた。 装飾音はきちっと入るため何カ所か歌手とオケの間合いの違いが感じられた。結婚式というより葬式のようで、 いたずらな天使が創りだしたイルージョンがコンセプトなのか?スザンナは伯爵をくどき、伯爵夫人はケルビーノに迫る、 浮気な伯爵夫人に伯爵が悩んでいるといった展開で、本来このオペラが持っていた、機知とか洗練とかいったものが消え失せ、 頭の中の妄想が舞台を駆けめぐったという演出だった。

生誕日にアーノンクール氏が鳴らした警鐘を裏うちするように、彼の演奏の前に参加するために、あるいは自分の衣装演出を見せるかのように、 例年にもまして派手やかな衣装の方々が集まり、会場までは車の渋滞、会場は香水の渦と化していた。終了後は、拍手の嵐だったが、 ひょっとすると、この指揮者の狙いは、私も含め、集まった人たちに対する痛烈な皮肉をぶつけることだったのかもしれない。

キャストなど詳細は

ドン・ジョヴァンニ(8/24)

この上演を見て、 改めて気づくのは、「ドン・ジョヴァンニ」というオペラがいかに精巧なバランスの上に成り立っているかということである。 この曲では役と音楽は不可分であり、これを無視してキャラクターを変えると、ドラマの味が損なわれてしまうのだ。セリアが恩赦、 ブッファが許しによってハピーエンドを迎えるのに比べ、このオペラでは主人公が地獄に連れ込まれて終わる。しかし、この主人公は、 単なる女たらしではなく、教養のある貴族で、社会の掟に縛られない、いわば自由人であり、 他に影響されて自分の行動を変えることは決してない。だからこそ、社会の決まりに縛られず、第1幕のフィナーレに貴族のメヌエットと庶民のダンスが共鳴するのである。 もちろん様々な演出が工夫されることに異存はないが、これを暴力と欲望の権化、 危ない立場になれば謝罪も辞さないというチンピラキャラクターに仕立て、欲望の対象である若い女性の白い下着姿が、 やがて黒い下着姿の地獄からの追手に代わり、 また迫り来る罰をバロックオペラよろしく亡霊や見捨てられた晩餐などシンボル的に絵解きされても、 まるでザルツブルクの夏の定番「イェーダーマン」を見ているようで、本筋を構成するドラマの魅力は低下するばかりである。 元来悪人ではなく、主人に追従しているだけのレポレッロや、臆病で優しいドン・オッタビオが勇ましすぎるのも、興ざめである。 歌唱はいずれもすばらしかったが、音楽とキャラクターが一致しないため、今一つ乗り切れないまま終わってしまった。 指揮はダニエル・ハーティングが執ったが、彼の魅力であるきめ細かな指示は、ウィーンフィル相手には通じず、 時には音のズレもあって、彼としては不本意な演奏ではなかったかと感じられた。

キャストなど詳細は

ツァイーデ、アダマ(8/19)

ツァイーデは、 後に台本となった物語「後宮」が見つかったことから括弧付きで表記される「後宮からの誘拐」のラフスケッチとなった作品で、「誘拐」 と異なるのは、太守が凶暴であること、太守の腹心の手引きによって逃走を図る点、この腹心は捕まって太守と政敵により処刑される。 ADAMAは、 このモーツァルトの未完作品が持つ「物理的拘束」に着想を得て 「文化的拘束」というモチーフで、イスラエルの作曲家ハヤ・チェルノヴィンが作曲した作品。 タイトルのADAMAは地球、人、 血を合成した造語であるという。パンフレットによると、パレスチナ人の男、イスラエル人の女というカップルが、 愛し合いながらもバックグラウンドの違いから分かれるが、2人を待っていたのは父による野次馬たちの激しい罵りというストーリーらしい。 ADAMAはいわゆる現代音楽で、音楽というより音の進行、 せりふもアラブ系言語なのかそれとも単なる音なのか不明である。ツァイーデのオケは通常のピット、ADAMAのオケは舞台後ろのドア越しに見える部屋に陣取り、 歌手は同じ空間で、2つの曲を交互に時には同時に進行していった。太守(あるいは部族の父)の分身である巨大なマスクが登場し、 羨望、嫉妬、規制、暴力などを演じ、またパレスチナ情勢を背景に投影して問題提起をするのだが、終わってみれば意味不明。 分かったのは自分の理解力を超えていたということだけであった。昨年のモーツァルト週間では、 演奏会形式でツァイーデが演奏されたが、この時も余計なせりふが多いと感じたものの、 今回よりずっとモーツァルトを感じることができた。

キャストなど詳細は

後宮からの誘拐(8/5)

アイヴォア・ ボルトン指揮のモーツァルテウム管弦楽団、そして歌手もすべて秀演を見せてくれた。特に、 オスミンのフランツ・ハヴラータ、ブロンデのヴァレンティナ・ファルカスがすばらしかった。しかし、演出家には、どうも、 このオペラが本来持っている啓蒙思想とか君主の慈悲、一夫多妻のハーレムなどが容認できないものらしい。2003年に見た時には、 いきなりマザッチオの楽園追放が舞台に再現されて驚かされたが、細部に多少の違いがあるとはいえ、今回も結婚願望への疑義? というテーマで展開に大きな違いはない。実は昨年、モーツァルテウムのパーティで「来年はオペラ22を全曲聴きたい」 と話をしたら、「あの誘拐も?」と問われたことを思い出す。2回見れば隠れた意図が分かるかもしれない期待したが、 登場人物の人間関係も、ストーリーも依然として、理解不能で、モーツァルトが結婚への喜びを存分に表現した自信作に、なぜ、 このような演出をぶつけたのか理解に苦しむ。その思いは私だけのものではなかったようで、演出家が壇上に上がると、 それまでの拍手に、ブーイングが巻き起こった。

キャストなど詳細は

付>イドメネオ「R.シュトラウスによる編曲版」(8/25)

R.シュトラウスは、優れたモーツァルト演奏家でもあり、 ザルツブルク音楽祭立ち上げの功労者の一人でもある。編曲版を聴くのは初めてだが、 序曲が始まり流れてきたのはモーツァルトのメロディである。言葉はドイツ語であり、編成も大きい。時に金管が加わり、 第2曲がロンドに変わって、R.シュトラウスらしいヴァイオリンのソロが流れるが、 まだモーツァルトである。第2幕に入り、ほどなく様相が変わる。 イーリアのアリアなど数曲は順序が組み替えられ、次第にR.シュトラウスの音色がふえて、イズメーネ(エレットラ) の怒りの部分まで2幕が続く。3幕に入るとR.シュトラウスのオーケストレーションはより濃厚になり、最後は、 シュトラウス一色に染まって終わった。演奏会形式による好演で、ドレスデン州立歌劇場管弦楽団は、編曲版にふさわしい、 渋くて重厚かつ繊細な、ドイツロマン派の音色を楽しませてくれた。

キャストなど詳細は

付>午後の曳航(8/26)

オペラ22には、世界初演と銘打った三島由紀夫原作、ハンス・ヴェルナー・ ヘンツェ作曲のオペラ「午後の曳航」も加わっていた。バック照明を伴う演奏会形式で、他のオペラとは異なり、言葉は日本語、 字幕がドイツ語と英語という珍しい体験となった。日本人歌手は声量に富み、また日本語版に際して全体の1/3を書き直したとの解説が書かれていたものの、 歌詞は特に高音声部が聞きづらく、我々が日常、西洋言語に比べていかに低い音域で会話をしているかを知らされた。また、 重唱部分では、母音が重なり、アルブレヒト指揮、国立イタリア放送協会交響楽団の熱演による大音量の響きが加わって、 全てが同音と化し、何を言っているのか聞き取れない部分も多くを占めた。日本語に適したオーケストレーション、 子音や撥音の歌い方に対する工夫などに課題を感じた。日本人が多くを占めていたまわりの席が休憩後空席になったのとは対照的に、 文字から内容を理解した聴衆は大喝采で、80歳になった作曲者が車いすで臨席していることがわかると、 舞台に背を向け、長いスタンディング・オベーションが続けられた。

キャストなど詳細は

付>偽の女庭師(8/26)

3つの幕ごとに登場人物の恋愛感情が変化。関係はもつれ、混乱、嫉妬がある。 デリエ版「女庭師」は「恋愛感情は揺れ動き、不安定で移り変わる」をテーマに、 現代ドイツ圏の日常的なホームセンターを縦横に使った職場の恋愛劇として演出された(無論、 イタリア語歌詞による原作で、ドイツ語用に編曲された「恋の花つくり」ではない) 。序曲とともにけんかのシーン。嫉妬心からベルフィオーレ伯爵がヴィオレッタを刺し、てっきり殺したと思って逃げる場面から始まる。 ヴィオレッタはサンドリーナと名を変え、ポデスタの店で働く。ベルフィオーレ伯爵以外の登場人物は全員ここで働く従業員という設定である。 さまざまな恋愛感情が職場に渦巻き、2幕のラストシーンでは、 映画のように登場人物の顔が映し出され、輪舞のようにぐるぐる回って、しだいに恋愛感情で理性がなくなり、頭が混乱している様を表出。 一方では、混乱する筋を理解しやすくするため、最後に誰と誰が結ばれるかを予想できるような衣装の工夫(伯爵とヴィオレッタはロココ調、 アルミンダとラミロは黒を基調、セルペッタとロベルトはグリーン系)も凝らされていた。最後は、ポデスタ以外が相思相愛になって 「めでたしめでたし」となる原作だが、「いや、このまま終わるはずはない。きっとドタバタの続編が待っているにちがいない」 と予感させるエスプリのきいた演出であった。ボルトンの指揮は、品の良い幕の内のように万人向けで、筆者としては、 もっとスパイスを効かせて欲しかった。

キャストなど詳細は

1月に見たこのオペラを日程の都合で割愛したため、 本稿の執筆は、国際モーツァルテウム財団通訳の川瀬紀子さんにお願いしました。:支配人敬白

 

付>三大交響曲 (8/27)

モーツァルトイヤー2006の 「アーティスト・イン・レジデンス(常駐演奏家)」に選ばれたアーノンクールは、 ザルツブルクでの生誕式典でKV550を振り、 2楽章と3楽章の間に祝辞を述べた。 「我々は、モーツァルトの音楽にもっと耳を傾けるべきだ」、「この年をお金儲けのために祝うのではなく、 今まさに危機に瀕している芸術を考え直す年とすべきだろう」。彼はこの憂いの曲を祝辞にぶつけ、 125日の命日にはレクイエムを用意している。 827日、 生誕日からちょうど7ヶ月目の 「夏の音楽祭」が終幕を迎えようとしているこの日、彼は、三部作と考える最後の3交響曲を演奏した。 思えば、アーノンクールにとっても、この場でこの曲群を演奏することは、 これまで彼が手がけてきたことの集大成なのかもしれない。この日を任されたコンサートマスター、ライナー・ホーネックが真っ先に入場し、席に着く。 指揮者が登壇し、満場の拍手。心なしかウィーンフィルが緊張して見える。KV543、 重い序奏。第3楽章では、 メヌエットとレントラーが峻別して演奏された。KV550、 叫びは生誕日ほど重々しくはない。フィナーレにも余韻をためている。そしてKV551。 楽章の間さえもどかしくフィナーレに入った。その日それまでに現れた全ての音楽を収斂し、モーツァルトにとっての師なるもの、 父なるものが次々に立ち現れるかのようなフーガが壮大に鳴り響き、会場に渦まいた。途中2回の休憩を取り、 都合2時間45分にも渡る熱演の後、 マイスターは、聴衆の鳴り止まぬ拍手、スタンディング・オベーションに満足そうにつきあっていた。

キャストなど詳細は

付>ハ短調ミサ(8/30)

CIMG0086

生誕250年の 「夏の音楽祭」で最後を飾ったのは、国際モーツァルテウム財団の主催によるザンクト・ ペーター大聖堂でのハ短調ミサKV427であった。 結婚から一年。モーツァルトが故郷に帰り、宮廷楽団員総出の下、妻の歌でこの司教座教会に感謝を捧げた曲である。原曲は未完であるが、 当日はロバート・レヴィン編曲による完全版が演奏された。コンスタンツェが歌ったソプラノパートを受け持ったのは、今夏、魔笛で夜の女王、 アルバのアスカーニオでファウノを演じて大喝采を浴びたディアナ・ダムラウで、彼女の歌を聴いていると、コンスタンツェはここまで歌えたのかと驚き、モーツァルトに歓喜させられた。十字架状の教会のクロス部分に陣取り、 高いドームにむけて振り上げるようなヘルムート・ リリンクの指揮棒によって、独奏者やシュトゥッツガルト祝祭合奏団の音はドームに向けて立ち上り、 クロスの左右にひろがっていく。まさに荘厳な時間であり、演奏であった。

この日は朝から雨であったが、会場に向かってマカルト橋を渡っている時、突然光が射し、ホエーエンザルツブルク要塞の上に、 2本の虹の大橋が現れた。 モーツァルトの生家を抜け、大学広場からザンクト・ ペーターへ向かう小径は、ナンネルの日記帳に綴られているとおり、モーツァルト一家が毎日のように通った道に違いない。 演奏後のレセプションでは、レヴィン氏がワインを片手に、いつもモーツァルトの音楽のことを考えていると、即興演奏の時、 その場の雰囲気に合ったモーツァルトが湧き出てくると熱っぽく語ってくれた。 それらはオペラ22を聴き終えたことに対するすばらしいご褒美のように感じた。

キャストなど詳細は

最後に、つたない感想をお読みくださった皆さまに心より感謝を申し上げます。支配人敬白